おむつフィッター倶楽部活動

おむつフィッター倶楽部発足記念講演

おむつフィッター倶楽部主催(2015.5.11)

ナイトセミナーin京都。西川勝氏が語る 「ケアの再考―ケアってなんだろう?」

5月11日、おむつフィッター倶楽部の発足記念講演会を開催しました。
講師は大阪大学の西川勝氏で、「ケアの再考―ケアってなんだろう?」と題して、ケアをする側とされる側の間でやりとりされるもの、「ケア」という言葉の中にあるものを開いて示していただきました。その要約を掲載します。

「ケアの再考―ケアってなんだろう?」

要約
僕は精神科病棟の看護師だった。精神科病棟では自分の倍も生きてこられた患者さんが二十歳すぎの自分を先生と呼ぶ。そんな患者さんが有難うと言うので、自分のケアに満足していた。しかし、自死を選ぶ人たちもいる。当時はそんなことは想像もできなかった。15年、精神科病棟で勤務して、これはもうやめるしかないと思い、精神科病棟から人工血液透析病棟勤務に転職をした。

透析を受けている方が自己決定で「やめる」と言っても、病院ではそれを認められない。自由や権利と言った、病院の外で語られているものは、病院という現場ではカギカッコ付きのものでしかなかった。医療や介護の世界での議論では、「いのち」「病」は捉えきれない。そう思って、40歳を過ぎてから臨床哲学を学び始めた。

ケアには哲学が必要だ。「テイク・ケア」という言葉の中に何があるのか。

相手の困りごとを持ってあげるという意味だ。

これは相手が自分の気苦労を自分に渡してくれて成立する関係。看護師は、患者が看護師さんと呼んでくれてはじめて看護師になれる。ケアも、相手が自分の苦労を差し出してくれてはじめて成立する。

僕の哲学の師匠である鷲田清一京都市立芸術大学理事長が、ケアについてこんな例を投げかけている。

プロボクサーで俳優、コメディアンだったたこ八郎の墓石には「めいわくかけてありがとう」という彼の言葉が刻まれている。

迷惑をかけてすみませんではなく、ありがとう。

回復し、自立していく人を相手にするのならば、相手がすみませんと言い、自分は構わないよなどの返事をする関係と言える。すみませんと言うことは、あなたから離れますよという意思も持つ。

そうではない人、もう自分では何もできない人。再びできるようにはならない人は、すみませんと言って離れていくことができない。生と死においては、人は自分では何もできない。すべてが相手任せになる。ケアとは、自分と相手の間で関係が二転三転して変化していくものだ。

(中略)

「お互いさま」ということも、自分と相手のできる部分でお互いさまなのではない。自分と相手のできない部分を共有するのがお互いさまだ。

人が人をまるごと救うなど、できるはずがない。相手は、できない自分が傍らにいることを許している。お互いのできなさでもって延々と、相手と積み重ねていく時間にこそ、ケアの本質がある。

おむつフィッター倶楽部発足記念講演の様子

西川 勝氏(にしかわ まさる)

大阪大学コミュニケーションデザイン・センター 特任教授

1957年、大阪生まれ。精神科病棟での見習い看護師を皮切りに、人工血液透析、老人介護施設と職場を移しつつ、二十数年にわたって臨床の現場での経験を積む。一方で関西大学の二部、大阪大学大学院文学研究科にて哲学を学び、看護の実際に即してケアの在り方をめぐる哲学的考察を行ってきた。現在は「認知症ケア」に関わるコミュニケーションの研究・実践を進行中。
著書に『ためらいの看護』(岩波書店)、『となりの認知症』(ぷねうま舎)など。